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湘南ベルマーレリンク集

1994年にJリーグ加盟。ホームタウンは、神奈川県の7市3町(平塚市、伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、厚木市、藤沢市、高座郡寒川町、中郡大磯町、二宮町)である。ホームスタジアムは平塚競技場。練習場は平塚市の馬入ふれあい公園内にある馬入サッカー場、産能大サッカーグランドなどを使用している。チーム名はラテン語のベルム(Bellum、美しい)とマーレ(Mare、海)の2つの単語を合わせた造語。



前身は藤和不動産サッカー部(フジタSC)。発足は、栃木県。日本リーグでは、1972年には1部に昇格し、1975年に、フジタ工業サッカー部に改称し、1977年には、初優勝し、以後、リーグ優勝3回、天皇杯優勝2回と強豪として鳴らした。 1993年(JFL) [編集] 1993年に湘南ベルマーレとしてJリーグ準会員申請を行い(柏、磐田とともに適用第1号)JFL1部で優勝し、1994年にベルマーレ平塚とチーム名を改めてJリーグ昇格。元ブラジル代表MFのベッチーニョ、ミランジーニャの活躍が大きく、岩本輝雄、名良橋晃、野口幸司、名塚善寛など、後に日本代表にも選ばれる20代前半の若手との融合でJFLでは圧倒的な実力を誇った。 当時はホームタウンが1つの市区町村を原則としていたため、地域名である湘南のチーム名採用が却下され、本拠地の平塚市の名前を採用した経緯がある。(参考として地域密着#チーム名参照されたい)また、チームのホームスタジアムである平塚競技場も当時はJリーグホームスタジアムとしての基準(スタンドで15000人以上収容、芝生部分はカウントしない等。当時メインスタンド以外はすべて芝生スタンドであった)を満たしておらず、その改修工事がネックとなって一時はJリーグ昇格が凍結される恐れがあったが、急遽平塚市が競技場のJリーグ規格への改修の予算を取り付けて昇格へとこぎつけた。 1994年 - 1997年(黄金期) [編集] 昇格したこの年はサントリーシリーズこそ12チーム中11位と低迷したが、ニコスシリーズでは優勝争いをするほどの躍進を遂げる。JFL時代以来、名良橋、岩本の両サイドバックが常に攻撃参加する超攻撃を展開していたが、サントリーシリーズでは守備が破綻、大量失点に苦しんでいた。そこで左サイドバックに公文裕明を起用、エジソンと田坂和昭の両ボランチがサイドバックのカバーにまわる守備体系を整備、大躍進につながり、湘南の暴れん坊、ベルマーレ旋風などと言われた。特に公文の守備面での活躍は目覚しく、左サイドにおける絶対的存在であった。公文出場停止時の2試合に2敗しており、優勝したヴェルディ川崎との差が1勝差で、得失点差は同点であったために、これがなければ優勝できた可能性が高い。結局セカンドステージ2位に終わったが、同年の天皇杯全日本サッカー選手権大会では勢いそのままに優勝を成し遂げた。田坂が新人王、ベッチーニョ、名塚がベストイレブンを受賞した。 さらに天皇杯優勝により出場権を得たアジアカップウィナーズカップでも優勝を果たすなど、Jリーグの強豪としての地歩を固めていき、若い選手中心の攻撃的サッカーは、多くのサポーターを魅了した。ベルマーレの黄金期であった。翌1995年には後に日本代表の中心選手となる中田英寿が入団。シモン加入後のニカノールによる中盤の底に3人のMFを置く戦術スリーボランチも日本では斬新なシステムであった。さらに1997年シーズンには、当時20代ながら長く日本でプレーし“日本代表の秘密兵器”と囁かれ出していたFWロペスと、韓国代表DF洪明甫が加入し、Jリーグ上位に常にいるチームとなった。 1998年 - 1999年(低迷期) [編集] 1998年のフランスW杯にはGK小島伸幸、DF洪、MF中田、FW呂比須(ロペス改め)と日韓合わせて4人の代表選手を輩出。しかしW杯終了後に中田がイタリア・ACペルージャへ移籍すると、時期を同じくして成績が低迷。1999年には親会社だったゼネコン・フジタが経営の建て直しを図るためスポンサーから撤退したこともあって、94年〜95年の黄金期にスタメンであった選手の全員がチームを離れるなどして(小島、野口幸司、名塚、田坂、渡辺卓、公文、岩元など。岩本、名良橋、ベッチーニョ、アウミールは98年1stステージ以前にチームを離れている)メンバーが手薄となり、その結果J1で年間成績最下位となりJ2降格。前年に妹チーム的存在であったL・リーグのフジタサッカークラブ・マーキュリーが同じ様な境遇から廃部となったこともあり、ベルマーレに対してもチーム存続の危機が囁かれた。 2000年 - 2005年(J2) [編集] そんな中、2000年にはチーム名を「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」に改称。ホームタウンも拡大し市民参加型のサッカークラブに体制一新して、新たなスタートを切った。 名古屋グランパスエイトからベテランGK伊藤裕二、清水エスパルスからDF白井博幸、そして当時ブラジルのチームなどを渡り歩いていた前園真聖、チーム始動日に突然練習に現れ、契約に至った松原良香などアトランタ五輪世代の即戦力を補強し、1年でJ1復帰を目指したが2000年シーズンは8位と低迷。加藤久監督をこの期限りで解任するとシーズン中に発表したフロントに不信感を持った前園、松原らこのシーズンを支えた主力もチームを去る事になった。 2001年シーズンは元コロンビア代表パラシオスをはじめとしたコロンビア組を中心に補強。98年以来の復帰となった栗原圭介とエースとして期待された若手FW高田保則がそれぞれ17得点するなど活躍したが、シーズン中盤に栗原が離脱すると同時に失速。昨年と同じく8位に終わる。 2002年シーズンはパラシオスを中心とした守備陣と、途中加入した熊林親吾、吉野智行らを中心としたJ2でも屈指の中盤を携え、また、前年度に在籍していたガビリアがコロンビアで練習中に雷に撃たれ死亡すると言う悲報にチームが奮起し、5位と躍進。着実にJ1昇格に向けチーム力は上がっているものと思われた。 そして、チーム創設10年目にJ1復帰と、大型予算で挑んだ2003年。監督にフィリップ・トルシエの右腕として元日本代表コーチを務めていたサミアを迎えた。フラット3を組み込んだ3-5-2システムは開幕戦こそ機能したが、日本中に知れ渡っている作戦だけに弱点を露呈。また、パラシオスの怪我による離脱、期待されていた元プレミアリーグミドルスブラのハミルトン・リカルドの不調など序盤で躓き、10位に低迷(サミアは途中退任、リカルドも「諸事情により」途中帰国してしまった)。 2004年はFC東京よりアマラオを獲得も昨年と同じ場面を見ているかのように波に乗れず、山田松市監督に対する批判が集中。第4クールからは、アテネ五輪のサッカー日本女子代表(なでしこジャパン)の監督を務めた上田栄治が後任の監督に就任し巻き返しを図ったが、時は遅く、前年と同じく10位で終わった。シーズン終了後には2003年より攻撃の中心として据えられていたキム・グンチョル、シーズン途中で柏レイソルへレンタル移籍していたパラシオスの退団が発表された。サポーターはパラシオスのお別れ会を開催するなど、2001年からチームの象徴とされていたDFを惜しんだ。 2005年シーズンの出だしは快調だったが、シーズン中盤に苦戦を強いられてしまい、結局リーグ戦7位でシーズンを終え、明確な目標としていた昇格争いに食い込むことはできなかった。シーズン終了後、ベルマーレを支えてきたユースからの生え抜きのFW高田保則をはじめとした主力クラス(鈴木良和、佐野裕哉、吉野智行、バリシッチなど)を根こそぎ放出すると言う異例の大量解雇を行い、選手、サポーター共に辛く、悲しいシーズンになった(ちなみに、このシーズンに移籍していった主力クラスはその後他クラブの主力として活躍。サッカー誌のベスト11の常連になるなどの活躍を見せている)。なおこのシーズンの最終戦は湘南vs横浜FCの対戦となり、横浜FCにレンタル移籍中であった高田が試合後、横浜FCのユニフォームを脱ぎ、ベルマーレのユニフォーム姿で湘南サポーターに向けて疾走した。 2006年 - 2009年(J2-J1昇格) [編集] 2006年シーズン、前年レンタル加入していたFW梅田直哉を浦和レッズから完全移籍させ、モンテディオ山形からMF外池大亮らを補強。外国人助っ人には2000年に浦和で活躍した攻撃的MFのアジエルと、元山形のボランチMF、ニヴァウド、若いFWファビオを補強し、J1昇格を狙った。しかし、シーズン前より明確であった戦力不足(中町公祐を主軸とした中盤の構成の失敗、現場が計算外だと嘆いたほどの守備陣の脆さが露呈した)が響き、シーズン中盤に8連敗を喫し、その間に上田監督は辞任した。さらに終盤にも6連敗するなど過去最低の11位に終わってしまった。シーズン後、2年間ほぼフル稼働し、2006シーズンにはチームMVPクラスの活躍をしたキャプテン佐藤悠介が本人の希望により東京ヴェルディ1969に移籍。さらに城定信次、小林弘記など昨年に引き続き7人を放出。2年連続での大量解雇となった。 低迷の続く中、2007年、J1昇格のための反攻が始まる。シーズンを前に浅野哲也をトップチームコーチに招聘し、補強面ではFC東京からジャーン、モンテディオ山形から原竜太、清水エスパルスから斉藤俊秀、ドイツ3部リーグなどを渡り歩いた鈴木伸貴、鹿島アントラーズを戦力外となり11年ぶりに湘南に復帰となる名良橋晃などの獲得に成功した。また、J1にレンタルしていた選手を呼び戻すなど、積極的な補強を敢行した(2006年までのベルマーレのレンタル放出は、資金面などの理由もあり基本的には完全移籍をオプション事項に盛り込んでいた。そのため、レンタル先から復帰させたのは当時としては珍しい事例だった)。過去最低成績に終わったシーズン終了直後から他チームよりも早くチーム作りを開始した。アジエルを攻撃の基点としたチーム作りで、J2降格から(また、湘南と名を変えてから)初めてとも言える昇格争いに肉薄する。終盤まで昇格の可能性を残していたものの昇格はならず、6位でシーズンを終えた。なお、このシーズンをもって選手会長の外池大亮が引退。ホーム最終戦セレモニー中に発表し、サポーターはその場で急遽「トノありがとう」の横断幕を作成。昇格の可能性が消えた直後のスタジアムだったが、福岡サポーターも「外池」コールで送り出すなど、非常に雰囲気の良いホーム最終戦で昇格争いを終えた。昇格が叶わなかったとは言え、はじめて年間を通して昇格争いに加ったことで、サポーターも翌シーズンに期待を持った。 2008年は2005年の加入から左サイドバックとしてほぼレギュラーを務めていた尾亦弘友希をセレッソ大阪に放出するも、2007年を戦った戦力はほぼ残留。さらにアビスパ福岡よりリンコン、アルビレックス新潟から三田光、FC東京から阿部吉朗そして山形から湘南ユース出身で8年ぶりの古巣復帰となる臼井幸平を獲得。2007年シーズン戦力に即戦力を加入させ、本格的にJ1昇格を狙うチームを作り上げ、実際に最終節まで昇格争いに絡んだものの最終順位は5位で10シーズンぶりのJ1復帰にあと一歩及ばなかった。 2009年は、1994年から1997年までベルマーレで現役生活を過ごした北京五輪サッカー日本男子代表監督の反町康治が監督に就任し、11年ぶりの悲願達成へ「湘南の暴れん坊復活」をテーマに全51試合に及ぶ嘗て無い長丁場の戦いに挑んだ。新たな戦力としてアルビレックス新潟時代に反町監督が指導した寺川能人、野澤洋輔を獲得も、加入以来ジャーンとともにディフェンスラインを形成していた斉藤俊秀、エースストライカー石原直樹など『主力級』の放出が目につき、シーズン前のサッカー誌などの評価は決して高くなく、「J1昇格は時期尚早、今後へつなげるためのシーズン」と言う評価が目立った。しかし、開幕直前に京都サンガを戦力外となっていたFW田原豊が練習に参加、開幕2日前に正式に契約し、斉藤を放出し不安視されていたDFもHonda FCから獲得した村松大輔が開幕スタメンで起用されると結果を残し、開幕5連勝を飾るなどスタートダッシュに成功した。シーズンを通して昇格レースに絡み、12月5日に水戸ホーリーホックを 3-2で下して勝ち点98で3位が確定し11年ぶりとなる来季のJ1復帰が決定した(11シーズンぶりのJ1復帰はJリーグ最長記録になる。)。このシーズンはシーズン終盤の甲府戦(第49節。勝ち点91同士で並んでいた)を含むロスタイムでの得点が実に10得点を数え、最終戦である水戸戦も2点をビハインドを跳ね返すなど、劇的な場面を数多く作り出した。 2009年のチームの特徴として、前述したロスタイム弾の多さと、絶対的ストライカー不在を逆手に取った得点者の多さも挙げられる。10得点以上を記録した選手が5人を数え、どこからでも得点が取れるチームを作り出すことに成功した。反面、カウンター中心のサッカーにシフトしたことで運動量が求められ、高温多湿の夏場の試合では足が止まることもあり、夏場(第2クール)では4連敗を喫したこともある。またスタメン組とサブ組の実力差が大きく、主力が出場停止などで欠場するとその穴を埋める作業に頭を悩まされることもあった。 2010年(J1) [編集] 21世紀になってから、また湘南の名前を冠してから初のJ1となる2010年シーズンを前に、弱点をピンポイントに補った補強を敢行。ジェフ千葉から新居辰基、アルビレックス新潟から松尾直人、コンサドーレ札幌から中山元気、水戸ホーリーホックより小澤雄希、ベルマーレユース出身の馬場賢治は期限付き移籍でヴィッセル神戸より獲得。ユースからの昇格選手や期限付き移籍からの復帰選手も多く、11年ぶりの舞台で躍動する準備に明け暮れている。その一方で、2007年に加入した原竜太と、2006年に加入した伊藤友彦が現役引退を発表。原に関してはサポーター有志が「お別れ会」を開催するなど、ベルマーレを支えた選手との別れを惜しんだ。

現在の湘南ベルマーレは株式会社法人(社会人=プロとユースのサッカーチームを運営する側)とNPO法人(異競技交流・並びにサッカーのジュニアユース、ジュニアチームを運営する側)に分かれているが、株式会社法人は当初フジタが全額出資した「フジタスポーツクラブ」として運営されていた。その後1994年のJリーグ入りを機にフジタを筆頭スポンサーとして地元企業・団体などに出資を呼びかけて企業名をなくした「ベルマーレ平塚」(更に1996年からは「湘南ベルマーレ平塚」)に改めて運営された。 しかし長期不況が災い、フジタの資本提供も縮小され、チームも中田英寿ら主力クラスを他チームに放出するなど逼迫した経営が続き、1999年のJ1リーグでは戦力も大幅ダウンしわずか4勝(25敗1分け)の年間16位でJ2降格が決定。チーム存亡が取り立たされる。 その年のシーズン終了後、旧法人だった「湘南ベルマーレ平塚」と新法人である「湘南ベルマーレ」の株式等価交換が行われた。これは一度フジタが全額出資して新法人を設立した上で、その株式を平塚市などホームタウンの自治体や企業・団体・市民などで構成する株主に譲渡し、その代わり旧社の株式をフジタが買い取った上で会社を清算(解散)させるというものだった。旧社は清算後フジタの会社再建の資金に当ててベルマーレの経営から完全に撤退。そして市民参加型の総合スポーツクラブ作りを目指す新生湘南ベルマーレが誕生した。 Jリーグは1999年度からホームタウンをそれまでの原則1市区町村から複数の市区町村にまたぐ「広域ホームタウン制度」が認められ、新法人の設立をきっかけとして平塚市を含む湘南地区10市町村に拡大することになり、それに伴い登録チーム名称も1993年以来7年ぶりに地域名である「湘南」が復活した。 当初は元ジュビロ磐田の小長谷喜久男が社長、会長に衆議院議員の河野太郎が就任。最初はサッカーの全てのカテゴリーの運営のみでスタートしたが、2002年からJリーグ百年構想に沿った総合的なスポーツクラブ作り定着を目指して、法人を株式会社とNPOの2つにし、そのうちの株式会社法人はJリーグを戦うプロ(社会人)サッカーチーム(トップ&サテライト)と、それに付随する高校生世代を対象としたユースチームの運営に専念するようになった。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




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